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2008年2月11日 (月)

★塩川氏の前線城、吉川城(長棚城)★

Spict0215_3 吉川城(長棚城) 豊能郡豊能町吉川

標高366m・比高160m

2008/1/15

中央環状線からR171に抜けてR176に入り池田城の山麓を廻りこみ、R173を北上、一の鳥居からR477に入る。何度か通った道だ。能勢電鉄妙見ケーブル駅を右に見て行き過ぎに気づき引き返す。

吉川八幡神社参道から、高代寺・吉川城ハイキング道への起点になる神社に向う。境内に駐車しても良かったのだが、何故か憚られて戻り参道入口の道路脇に駐車する。神社境内に案内標識があり「吉川城まで1.5km」とある。

山道を登り詰めると、東側の横堀を越え主曲輪段に着く。楕円形の主曲輪は、完全に削平されているわけでもなく、緩やかな傾斜地表面を持ち、東西40m・南北30m位だろうか。一段下がって帯曲輪がほぼ全周に巻き、主曲輪や帯曲輪には、部分的に土塁の高まりが残っている。横堀ともとれる帯曲輪を西側に下ると、さらに帯曲輪があり高代寺に続く山道は尾根上の次のピークに登る。いたってシンプルな構造の城だ。

城の存在は昔から知られ、「東摂城址図誌」にも記載され南方を大手道としている。主曲輪には、地元の方による手作りと思われる案内板もあり、南傾斜面と西側鞍部の南傾斜面に竪堀が記載されている。

高代寺日記に、「天正元年葵酉十月二十三日より塩川伯耆守長満以軍勢吉川城ヲ採リ巻ク二十三日ヨリ十一月四日マデ十二日間合戦無止事則十一月四日に落城ス、吉川豊前守定満同左京亮両人囲ヲ切リ抜ケ退丹波其夜吉川の同名六人違性レ一族以上四十余人上下三百余人一時ニ亡ブ塩川伯耆守知行之落城の跡諸事支配スト云フ云々」と記されている。

現在、この城を吉川城と呼称しているが、高代寺日記に出る吉川城とあるのは、妙見口駅の近く、西方寺から北東に続く丘陵部にあった居館城の井戸城のことではないだろうか。

この吉川城は塩川勢が能勢氏の領地と接する、北の大土(大槌)峠を意識して築城した前線城(橋頭堡)では無いかと思う。この山城から東に降って、R477に接する丘陵部(吉川八幡神社の東)に黒川城と呼ばれる城砦遺構がある。ちなみに長棚城は塩川方の呼称と聞く。

塩川氏に関しては、その居城、一庫城や山下城を訪ねた頃より興味を持っていたが、源満仲を祖に持つ多田武士団の惣領的な存在との認識しかなかったので、今回、もう少し調べることにした。

江戸時代に書かれた「細川両家記」を読むと、摂津・丹波守護の足利幕府管領・細川政元亡き後、細川高国VS阿波勢・細川澄元とその子・晴元との戦いでは、高国方に付いていたが高国が天王寺合戦に敗れ尼崎で敗死する、享禄四年(1531)の数年前から晴元方に付き(この頃の将軍は足利義晴)、天文十八年(1549)四月、三好長慶と敵対した晴元が多田塩川城(一蔵(庫)城?)に入っているが、三好長慶軍に敗れ退いている。

天文二十二年三月(1553)、三好長慶との和議を破って霊山城に入った将軍・足利義輝(義晴の子で当時は義藤)は、流浪中の細川晴元の勢と合流し三好長慶と敵対するが、敗れて、再び近江・朽木谷に退き二十二才までの五年間を過ごす。この頃の塩川氏当主は、塩川伯耆守国満(1500~1553?)で、吉川城に攻め込んだ、塩川伯耆守長満はその子とされる。

塩川氏は摂津守護の動員令により、他の摂津国人衆と行動しているが、永禄十一年(1568)九月、織田信長が足利義昭を擁して上洛、三好氏勢力下の畿内を席捲する。

塩川氏が何時頃から織田方に臣従したのかは定かでは無いが、一貫して反三好の立場をとっていたことから、永禄十一年(1568)十月以降かとも考えられる。これは、三好氏と織田氏との間で揺れる池田氏との違いでもある。信長のもとでは、池田勝正や荒木村重配下の国人衆として行動している。天正六年(1578)十月、荒木村重が信長から離反すると、塩川長満は織田の先鋒となり、有岡城攻めや、因縁の関係とも言える能勢氏攻めにも積極参加し、信長の覚えも良かったようだ。

高代寺日記にある天正元年(1573)十月の記述が正しいのなら、塩川長満が吉川城に攻め込んだ頃の摂津国の情勢は、永禄十一年(1568)十月、信長により和田惟政(芥川城)や伊丹親興(伊丹城)と共に、摂津三守護に任じられていた池田城主・池田筑後守勝正が内紛により元亀元年(1570)に失脚。新城主・池田知正(勝正の弟)は三好三人衆と結び、元亀二年(1571)八月、荒木村重や中川清秀らにより、信長配下の高槻城主・和田惟政、茨木城主・茨木重朝を討つ。

その後、池田家家中の実力者・荒木村重が池田衆を掌握し、元亀四年/天正元年(1573)三月、高槻城の和田惟長(和田惟政の子)を追放し茨木城も手中にして、信長の配下となり摂津一国支配を認められる。翌天正二年十月には、反信長に廻った伊丹親興の伊丹城を攻め取り、有岡城と名を変えて入城している。

塩川氏が吉川氏領に攻め込んだ理由は定かでは無いが、多田武士団惣領家を自認する塩川氏の意に添わない事があったのだろう。それが吉川氏領と接する自領民の訴えによるものか、銅鉱山などの利権に関わるものなのかは分からない。

 参考資料

細川両家記 塙保己一

(続群書類従完成会 S56年再版)

川西市史 第一巻、第二巻 S49年

吉川村史

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コメント

長棚城 懐かしいですね・・ッてもう7年前 まだ山城には左程・興味も薄くて、縦走中の山のピークの一つでした。城史も良く分からず、まして緩やかな登り・だだっ広い山頂部の 浅い窪みを堀切とは 余り興味も感じなかった(^^ゞ
踏み跡は薄いが下草が少なく 藪漕ぎしなくても進める程度の城跡には、古い縄張り図付き標木が打ちつけてありましたが、付近の様子は整備され一変している様ですね。
吉川城でGoogle検索して最初が私のURL・恥ずかしいばかりの内容ですが、黒川城も吉川城も 別に有るようですね? 吉川の次は其の本陣の井戸城ですね!! 県境近くの大阪府の城は 八上城関連で調べて 出掛けてみたいところです。
(出直す・・・という意味ですが・・(^_-)-☆)

投稿: 天々 | 2008年2月13日 (水) 09時13分

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