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2008年8月27日 (水)

★若江城は地下に眠る★

S00 若江城 東大阪市若江本町
 若江は若江郡衙(役所)が置かれ、天平時代から平安時代にかけて若江寺があったと聞く。若江寺は、鏡神社の北にある蓮城寺の辺りがその地とも聞く。河内の大池・深野池や新開池にも接した古代から交通の要衝地だったのだろう。

 永徳二年(1382)、河内国に畠山基国が守護として入り、南朝方勢力に対抗する為に、守護所を若江に置き、旧大和川の大小河川に囲まれた地に、川を堀に見立てた平城として若江城の原型が出来る。
 東西両軍に別れて、十年近く続いた応仁の乱が終結期を迎える文明九年(1477)九月、京を出た畠山義就の軍勢は、資料によると騎馬二百余騎。徒歩二千余人とある。この義就、戦には滅法強かったようだ。

 河内国入国時に、その数が増えたかどうかは分からないが、若江城には政長の河内守護代・遊佐長直が在城していた。天王寺に迂回した義就勢は八尾を経て、同月、義就の下に参集した、大和国人の越智・古市の勢を加えて、誉田城、嶽山城を落として反転・北上し、若江城の外城でもある客坊城を落とし、十月には往生院城と若江城も落ちた。若江城の救援に向かった政長方の筒井勢は、八尾・教興寺で越智勢に阻まれた。

 義就は高屋城(羽曳野市)を修築し、河内守護所を若江城から高屋城に移す。河内国一円と大和国の大勢を手中にして、文明十四年(1482)政長の領国・山城国に侵攻する。
 文明十五年(1483)政長も守口城を攻め落としているのだが、義就方の反撃に会い犬田城(枚方市中宮)で大敗する。この戦いで義就は、長雨で増量した淀川・千町鼻堤を切って水攻めにして勝っている。
 南山城国では、「山城国一揆:文明十七年(1485)」のきっかけともなる両軍の戦闘・滞陣が続くが、山城国一揆を受けて両軍手打ちで引き上げる。これには、多分に細川政元が関係したものと推察される。

 細川晴元政権を経て三好長慶が覇権を握るが、その死後、松永久秀と三好三人衆の抗争が続く永禄十一年(1568)、織田信長が上洛して平定戦を行う。
 三好長慶の甥・三好義継が若江城で河内北半国、河内南半国を高屋城の畠山高政に任せた。三好義継は、当初は三好三人衆方に担がれていたが、この頃は松永久秀と通じていた。
 天正元年(1573)七月、足利義昭が槇島城で、二月に続き再度、反信長の旗を挙げるが直ぐに制圧され、三好義継の若江城に入る。秀吉が義昭を若江城まで送り届けるという話があるが、後世の作り話で、秀吉独特のプロパガンダと思う。ほうほうの態で逃げたはずだ。
 何故、若江城なのか興味があって調べたら、義昭の妹が義継の夫人だったらしい。実の妹なのか養子を送り出したのかは定かではない。迎えた義継が、義昭の信長包囲網に荷担していたという説もあり、このあたりの話は錯綜している。その為に、同年十一月、信長配下の佐久間信盛に攻められ、家臣(池田教正ら若江三人衆)の造反で自刃している。
 足利義昭が堺から紀州由良に流れ、天正四年二月、反信長で西国の雄・毛利氏を頼って備後・鞆に滞留したことは衆知のことでもある。何故、紀州由良なのか調べてみたら、在地の豪族・湯川氏が足利将軍家の奉公衆で、反信長方だった縁のようだ。
 
 この後、若江城は本願寺攻めの拠点城となる。多聞院日記・天正四年五月四日の項、大坂石山本願寺・一向一揆衆との戦いで、信長に大和国守護として任命された、寄せ手の大将・原田備中守直政(塙九郎左衛門)らが討死している。多聞院日記では触れていないが、雑賀鉄砲衆の活躍に依るものが大きいと思われる。
 この報を聞いた信長は、急遽、大坂に向い翌五日には佐久間信盛を先陣に、若江城に入っている。興味深いのは、筒井から「ナラ中上ハ六十、下ハ十五の男」に対して出陣令が出されていることで、まさに総動員令だ。
 結果、七日の項で、「今朝信長惣勢打出、大坂衆悉追入、人数過分ニ討取由、大坂ヘ一揆衆先以引入了云々、」と成る。
 小説風に綴ると、大坂表の敗戦を聞いた信長は、憤怒の表情「許せんだきゃぁ」、湯帷子(ゆかたびら)のみで、馬を駆けて京を発つ。すがる供は百騎に満たず。
 俄か作りの前線橋頭堡・天王寺砦は雲霞の敵中に孤立した。天王寺砦に逃げ込んだ、明智光秀率いる近江衆らは風前の灯火の体。若江城に入った信長は、陣容を整え三千ばかりにて、自ら万余の敵に斬り込んでゆく。う、上様ぁ、感涙の面に兜を引き締めた光秀、天王寺砦からも鑓を揃えて打って出る。誰が、六年後の本能寺を予測したであろうか。
 戦には勢いと云うものがある。武者も揃い、兵数では圧倒的に有利でも、所詮、一揆勢は烏合の衆。信長勢の猛攻に、一揆勢は石山本願寺に追い立てられて一応の決着を見る。
 
 これより、信長勢は佐久間信盛を大将に、厳重な包囲網を敷き持久戦の体となる。そして、籠城方に物資補給を企てた毛利水軍との、第一次木津川合戦での惨敗に続く。
 天正六年(1578)十一月、織田方の水軍大将・九鬼嘉隆率いる大筒・大鉄砲を備えた鉄甲船団は、第二次木津川合戦で、宿敵・毛利水軍を撃破。約二年後に本願寺との和議成立、顕如の紀州国下向で、長年にわたって繰り広げられた石山合戦が終わる。

 若江城の廃城は、石山合戦が終わった天正八年(1580)頃、信長の指示と考えられる。これは、最終期の城主・池田教正が、八尾城を改修築して移った頃と一致する。
2008/8/19
 八尾・萱振城跡から若江城跡に向かう。府道24号・大阪東大阪線沿いの若江小学校の西に若江城跡の石碑があるのは知っていたが、その気になって自転車で巡るのは初めてだ。
 道路を挟んで向い(北)の公民館や幼稚園辺りが中心地とされ、発掘調査では城に関する遺構が数多く検出されている。城域の推定地域はかなり広いが、街中の城の常として何も無い。発掘された井戸の写真を見た。最下部を木桶で固めて瓦片を高く積み上げていた。これが若江城の井戸かどうかは知らないが、実際に見たかったな。
 西に進んで楠根川(第二寝屋川)に出る。この川筋が水運と西外郭の堀を担っていたのだな。若江小学校の南にある若江鏡神社に行く。おぅ、ここも式内社だ。亨保、明和、宝暦など江戸時代の年号が刻まれた大きな石灯篭が目に付く。

 鏡神社の南東角(若江南町二丁目4)に道標が残っていた。「右 十三越、すぐ 八尾」と刻まれている。十三越は東に連なる生駒山塊の十三峠を越えて、奈良県平群町に抜ける旧街道だ。八尾は確かにすぐである。
 生駒山塊の西麓には東高野街道が通り、この旧街道を見下ろす地に客坊城や往生院城があり、その上方標高460mの地に神感寺城がある。これらの城は寺院を城に転用したと聞く。
 参考資料
なぞの城 発掘調査から見た若江城 東大阪市立郷土博物館 H17年10月
集英社版日本の歴史 日本国王と土民 今谷明 1992年
歴史群像シリーズ37 応仁の乱 学習研究社 1994年

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