« ★木澤長政 その六 畠山氏の家督争い4★ | トップページ | ★木澤長政 その八 細川晴元から離反★ »

2008年10月 3日 (金)

★木澤長政 その七 一揆の嵐が吹く★ 

Pa020002 P9180013 画像上 後醍醐天皇旗揚げの地、笠置城には木沢長政が配下の兵を置いていた。西方から見た笠置山、左麓(北)に木津川、右(南)に柳生の地がある。

画像下 高屋城不動坂。右手上方に不動社があり、その奥(西)に本丸跡の安閑天皇陵がある。画像では平坦に見えるが、登るにつれて結構な坂で高屋城の大手道とも搦め手道ともされる。道の左右が土塁の様相を成している。手前の踏切は近鉄南大阪線。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 高屋城主・畠山義堯(よしたか:義宣)の家臣として、木沢左京亮長政の名が出てくる。長政は、享禄三年(1530)暮れ頃から、細川晴元に臣従して摂津や京都に転戦し、その信を得ていく。この頃の晴元は、未だ、京都に入れず堺で独立幕府の体を成していた。
 晴元には有力武将・三好元長(長慶の父)が居たが、晴元と反目するようになり、木沢長政は、元長と対立する三好政長と手を結び、河内飯盛山城を拠点にその勢力を張る。
 当時、細川氏が摂津国・山城国を領し、河内国は畠山氏が領していた。木沢長政は守護代として飯盛山城を居城とし、その勢力範囲は北河内、南山城、大和国に及んだ。

 享禄四年(1531)八月、三好元長と結ぶ河内高屋城の畠山義堯が、河内飯盛山城の木沢長政を攻める。長政は細川晴元に応援を請い、晴元が三好政長(神五郎)とはかって摂津に出陣すると畠山義堯勢は撤収した。翌、享禄五年(1532)五月、再び、畠山義堯勢が飯盛山城を包囲する。
 細川晴元は、縁戚の山科本願寺の証如(光教)上人に門徒衆の動員を依頼し、一向一揆勢三万が飯盛山城包囲軍を襲い、義堯勢に加わっていた元長の臣・三好遠江守(勝宗)が討死。義堯も高屋城に退くが城は落ちて自刃。
 同年六月、一向一揆勢十万人が堺の三好元長を攻め元長は自刃。堺公方とも称された足利義維も自刃しょうとしたが、晴元の手の者に幽閉され、元長の嫡男千熊丸(後の三好長慶)は阿波に逃れた。

 高屋城には畠山稙長が再入城し、木沢長政は義堯の弟・在氏を飯盛山城に迎え、名目上の頭領に据える。同年(1532)七月、一向一揆勢は大和国、興福寺・春日社に乱入する。大和国人・筒井順興が畠山義堯の陣に居た為とも伝えられる。一揆勢は高取山城の越智氏も攻め大和国も争乱の渦中に入る。
 一向一揆勢の爆発は、支配者の細川晴元や木沢長政にとって脅威となり、本願寺証如との抗争となっていく。改元した天文元年(1532)八月、木沢長政が一向宗・浅香道場を焼討ちし、細川晴元勢と本願寺勢との大抗争が始まる。
 木沢長政が中心となり、法華衆徒(日蓮宗)を動員して一向衆徒を攻撃。近江の六角定頼と法華衆徒が、山科本願寺を焼討ちする。
 「細川両家記」は、「尼女どもの落ちる事目も当てられぬ風情也、誠に寶山と見えつるも唯一時に灰燼と成ってめつする也」と記す。また、「畠山家記」は、「金銀珠玉ヲ鏤タル近国無双ノ大伽藍只一堆赤土と成」と記す。
 
 証如は京都山科を去り、大坂石山に新拠点・石山本願寺を築いて徹底抗戦をはかる。後に、織田信長に攻められ、豊臣秀吉が大坂城を築いた地だ。一揆勢は晴元方の城に攻め寄せ、木沢長政は法華衆徒を率いて応戦する。
 この抗争は双方痛み分けで、和議が成立する天文四年(1535)十一月まで続き、第一次石山合戦とも呼ばれる。
 しかし、法華一揆の嵐は収まらず宗教を越え、権力支配者と民衆間闘争の形となっていく。天文五年(1535)春、京都で山門(延暦寺)と法華衆徒との間に争いが起こり、延暦寺僧兵と六角定頼の軍勢らが、洛中の法華寺院を攻撃駆逐する「天文法華の乱」が起こる。細川晴元が将軍・足利義晴を朽木谷から呼び戻して京都に入ったのは、この二ヶ月後のことだった。

 天文三年(1534)、遊佐長教、木沢長政らが高国方の畠山稙長を追い、畠山長経を守護として擁立。天文四年(1535)長経を廃し、畠山政国を擁立するも、幕府の承認を受けられず。 天文六年(1537)畠山弥九郎を守護とし、畠山政国と総州家畠山在氏をその補佐として擁立。実権は家臣の遊佐長教と木沢長政の手にあった。

少し脱線する。
 高屋城は現在の高屋城跡で間違いないと考えるが、誉田城はどこにあったのだろう。同じ城だとの説がある一方、両城を使い分けている古文献もあるので、同一の城では無いとする説もある。
 誉田城を応神天皇陵に比定する声が大きいようだ。地図を見ても、実際に訪ねて見ても、高屋城と応神天皇陵はとても近い。先の両畠山家の和睦は、応神天皇陵に接した誉田八幡宮で行われている。武家の信仰を集めた八幡宮での誓約に異論は無い。
 しかし、応神天皇陵が誉田城とすると、すぐ傍の誉田八幡宮で行うだろうか。双方の中間地点か、離れた地を選ぶのではないだろうか。

 和睦以降、義英が誉田城、尚順が高屋城を居城としたとあるのだが、誉田城は本来、当地の有力土豪・誉田氏の居城とも聞く。確かに、古墳を城塞に利用する例は多く見られるが、果たして、応神天皇陵を居館にするだろうか。居住に適した広い平坦面があるわけではない。
 付近は古墳が多くある地で、車で走ると緑が覆う丘陵の多くが古墳だ。古市の名が示すように、古来から要衝の地とも伝えられる。丘陵地にこだわらず、街道を押さえる平地の館城を想定しても良いと思う。
脱線終わり。

 当ブログは歴史ブログランキングに参加しています。マイナーな山城に日の目が当たるように(笑)、皆様のご協力をお願いいたします。下記のサイトをクリックすると、当ブログのランキングポイントが上がるようになっています。もちろんクリックで料金請求は御座いません。↓にほんブログ村 歴史ブログ・日本史へ
http://history.blogmura.com/his_nihon/
 また、コメントを頂戴しますと、わたし、山城甚伍の励みにもなりますので、よろしくお願い申し上げます。m(_ _)m 

|

« ★木澤長政 その六 畠山氏の家督争い4★ | トップページ | ★木澤長政 その八 細川晴元から離反★ »

815 木澤長政 その七」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/500490/42672346

この記事へのトラックバック一覧です: ★木澤長政 その七 一揆の嵐が吹く★ :

« ★木澤長政 その六 畠山氏の家督争い4★ | トップページ | ★木澤長政 その八 細川晴元から離反★ »