★今も面影を残す古城跡・私部城(交野城)と安見直政 その一★
画像1/北東から見た城跡段丘
鎌倉時代に若狭国安見荘の豪族・安見清政が移り住み、以後、代々子孫の居城。私部城のある交野市は、北に枚方市、西に寝屋川市、南を四条畷市、東は生駒山塊を経て奈良県生駒市に接している。旧河内国交野郡は、大阪府の東北端に位置し「京へ五里(約20km)、奈良、大阪へも五里」と云われ、これらを結ぶ街道が通る要衝の地でもあった。
私部城(交野城)と云うと、安見直政(やすみなおまさ)の名が出てくるが、弓倉弘年氏の研究では、これは、後世の軍記物の記述に依るもので、判物や古文書などから、その名を「安見美作守宗房」と指摘され、北河内を地盤とする国人衆とされている。
南山城国や北河内国などに勢力を持った、木沢長政の下位勢力の位置だったが、木沢長政の討死(天文十一年:1542)により、畠山氏の傘下に入ったようだ。
小谷利明氏によると、「河内国上郡代として飯盛城に居城。下郡代で高屋城に居た萱振氏が、河内守護代・遊佐長教を暗殺(天文二十年五月)。その萱振賢継を、安見氏が粛清している。(天文間日次記・天文二十一年(1552)二月十一日条)」。
郡代は小守護代同様に、地域長官のようなものだ。遊佐長教の子・信教は未だ幼少で、安見宗房が守護代の如く振る舞うのは、この頃より以降になるのだろう。天文二十二年の判物に、畠山氏の内衆・丹下盛知と連名で発行したものがある。
永禄元年(1558)十一月、主君の畠山高政が、安見宗房と対立して追われる。永禄二年七月、安見宗房と三好長慶が戦い、飯盛山城の安見氏は敗走。
永禄二年八月、紀州の畠山高政が、安見宗房と和睦し高屋城に復帰。永禄三年(1560)六月、これをよしとしない、三好長慶が河内攻めをする。
「安見宗房が判物を発給できる力を持つのは、永禄四年以降と考えられる。永禄八年以降には遊佐を名乗り、遊佐美作守宗房の判物が残り、守護代と同名と成ることにより力を増していく」「畿内戦国期守護と地域社会 小谷利明2003年清文堂出版」
安見美作守宗房(直政)は、交野城や飯盛山城の城主として、三好軍と戦い永禄五年(1562)三月、久米田合戦では畠山高政のもとで、紀州根来寺衆や、和泉国国人・松浦孫八郎らと共に、長慶の弟・三好実休(義賢)を討つが、五月、教興寺の戦いで三好軍に敗れ逐電している。
三好長慶に飯盛山城や高屋城を握られ、河内国の大半を奪われた畠山氏だが、南河内の一部に勢力を保ち、判物に遊佐美作守宗房の名が見えるが、河内守護代家・遊佐信教(長教の子)の下位にある。
永禄十一年(1568)十月、三好三人衆を追った織田信長により、河内国は北を若江城・三好義継(三好左京大夫)に、南を高屋城・畠山高政とで分割統治することになる。
この時は、表だった抵抗が無ければ、現有の在地勢力の追認だったことが、畿内各地で見られる。信長自身に、全てを打ち壊して構築し直す力は、未だ備わっていなかったと思う。
永禄十二年(1569)秋、守護代・遊佐信教と遊佐美作守宗房は、対立する主人・高政を追い出し、弟の昭高を領主に担いだと云われている。
弓倉弘年氏は、永禄八年(1565)に、昭高(政頼)が当主の座についていて、高政と権限を分割していたとされる。なを、昭高は「秋高」であると論じている。権限の分割とは、高政は在京し幕政に関与し、秋高が領国を統治したとされている。
永禄十三年(1570)正月三日条の「言継卿記」に、安見(遊佐)宗房が、将軍(足利義昭)奉公衆に取り立てられたことが記されている。奉公衆は将軍の直轄軍で、細川藤孝・真木嶋昭光・三淵晴員・三淵藤英・和田惟政らの名を良く聞く。
また、信長により、北河内と南河内に、河内国の半国守護体制が確立されたのだが、私部城の所在地は、交野市で北河内に位置する。市区町村で地域割りされた、現在の行政区分では理解しにくいが、当時は、自国領域に入地や飛び地など、守護権の及ばない管轄外の地域は多分にあったのだろう。
あるいは、宗房が、一族ゆかりの本貫地領有権を主張したとしても、不思議は無いかなとも思う。
画像2、左「小字シロ」と右「小字テンシ」との間の堀
この辺り、永禄十三年(1570)から、遊佐美作守宗房(安見直政)の動向が分からなくなってくる。と云う事は、亡くなったか、表舞台から潜んだのか、あるいは歴史から抹消されたのか。
当時で七十歳近い年齢を考慮すると前者であり、後者であるなら、足利義昭の奉公衆になったことが関係してくる。
信長の指揮下に入り、元亀元年(1770)からの本願寺勢力との戦いで負傷、その後、天正二年(1574)、私部城(交野城)で没すると云う説があるが、先述の如く、年齢を考えると眉唾ものだ。
-その二に続く-
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